関の刃物(せきのはもの)
岐阜県郷土工芸品
「関の刃物」としての日本刀は五箇伝(ごかでん)※1 のひとつの「美濃伝(みのでん)」で、「関物(せきもの)」とも呼ばれています。「美濃伝」は五箇伝の中では一番最後の作刀の流派で、その特徴は美術的価値より切れ味と丈夫さを第一とする実用的な刀でした。
美濃国には「関鍛冶」の他に、志津(しづ:養老町)や直江(なおえ:大垣市)、赤坂(大垣市)にも刀鍛冶があり、合わせて「美濃物(みのもの)」と呼ばれていましたが、関鍛冶が発展したのに対して他の刀鍛冶は衰退してしまったため、「関物」と「美濃物」は同一視されています。
関鍛冶は、鎌倉時代末期(約700年前)に刀祖「元重(もとしげ)」や「金重(かねしげ)」が美濃の関に移り住み、刀を打ち始めたことがその始まりと言われています。
関で刀鍛冶が盛んになったのは、焼刃土(やきばつち)※2 の原料となる粘土、鍛造に適した鍛冶屋炭である松炭や栗炭、そして長良川の支流・津保川から豊富な水といった刀鍛冶に必要不可欠かつ良質な材料が容易に手に入るためでした。
戦国時代、各地で戦がありましたが「関鍛冶」は戦に巻き込まれることがなかったため、刀鍛冶に専念することができました。また実用的な刀を多く必要とした時代ということもあり「数打物(かずうちもの)」と呼ばれる量産品の刀を製造、その「末関物(すえせきもの)」は戦国の世の需要に合致し、関鍛冶は大きく発展しました。
そして室町時代後期には「備前長船(びぜんおさふね:岡山県)」と並び、日本刀の二大生産地となりました。その後「備前長船」は吉井川の水害でほぼ途絶えてしまったため、関鍛冶は300名以上の刀工を有する全国一の生産地となりました。
「関の刃物」といえば「関孫六(せきのまごろく)」を連想する人も多いと思います。「関孫六」は室町時代に赤坂で作刀を始めた初代から現代まで継承されている「孫六兼元(まごろくかねもと)」の俗称で、特に二代目の孫六兼元は、その切れ味の鋭さから日本刀の最高ランク「最上大業物(さいじょうおおわざもの)」に選ばれた刀匠として名を馳せ、「関孫六」は美濃物の一大ブランドとなりました。
江戸時代、太平の世となると日本刀の需要も減ったため、美濃物として培った技術は包丁やカミソリ、ハサミといった日用品の刃物に応用され、生産されるようになりました。
明治になり「廃刀令」が発令されると多くの刀匠は職を失い、次第に関鍛冶は衰えを見せ始めます。しかし、国産初となるポケットナイフの生産を始めるなど時代のニーズに応えることで、現在の貝印株式会社(1908年創業)やフェザー安全剃刀株式会社(1932年創業)といった日本を代表する刃物メーカーが誕生するまでになります。
そしてポケットナイフや食器類が海外への輸出されるようになると「関の刃物」は世界に知れ渡り、「刃物の3S」として「関(Seki)」は、ドイツの「ゾーリンゲン(Solingen)」とイギリスの「シェフィールド(Sheffield)」と並び称されるようになりました。
現代では「関孫六」が日本国内のみならず、海外でも「SEKI MAGOROKU」として品質の高い日本製刃物の代名詞にもなっているように、関の刃物は世界中で高い評価を受けています。
1992年(平成4年)3月30日、「関の手づくりナイフ」と「関伝日本刀」が岐阜県郷土工芸品に指定されました。
※1 五箇伝:刀の特徴を生産地によって5つに分類した「大和伝(やまとでん:奈良県)」、「山城伝(やましろでん:京都府)」、「備前伝(びぜんでん:岡山県)」、「相州伝(そうしゅうでん:神奈川県)」、そして「美濃伝」のこと。
※2 焼刃土:焼き入れする際に刀身に薄く塗る土で、粘土・砥の粉・炭等を混ぜ合わせたもの。それぞれの原料と配合比は、刀鍛冶の秘伝とされる。
外部リンク
関市観光協会「関の刃物」
外部リンク
岐阜県関刃物産業連合会
関鍛冶伝承館